皆さんこんにちわ
若くて髪の毛が長い若人を捕まえては、
男は坊主頭にせにゃいかんばい!高倉健も菅原文太も待田京介も
野郎は短いやろ?とポカンな突っ込みを入れている、
既にTシャツで夏場が恐ろしいと危惧しまくっている、
80キロ高血圧通風スポーツ刈親父です。(相変わらず挨拶が長いばい)
放置プレイと化した男汁ブログ、今宵久しぶりに復活しました。
(そして多分?また暫く放置の予感大)
それでは、成熟した一部の映画ファンだけには好評の
毎度のコーナー行ってみましょう!
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本日の東映映画
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関の弥太っぺ 1963年 山下耕作監督
ああ、生きてて良かった…
映画を見続けてきて良かった…
日本人で良かった…
関の弥太っぺは素直にそう思わせるほどの成熟した映画だ。
五十年も前の映画なのに、その余韻の深さは30数年も映画を観てきた私さえも
驚かさせる出来だ。もう頭、いや、心をわしづかみにさせられた。
個人的歴代ベストテンに入るのになんら躊躇しない映画だ。100年後でも
間違いなく通用する本物の映画だ。
人が人を思いやる心。
こんな陳腐過ぎるだろう、何処に でも転がっているテーマ。
古今東西有り触れたものが、この映画だ。でもどうだ、
ここまでシンプルなものが深く染み入るのは一体何故なんだろうか?
日本人が知らず知らずに身につけている自然への畏敬の念、
全てのものに神が宿っている神道の精神が下地にあるからではないだろうか?
映画の中に散りばめられた、花、川辺、子供、雨、晴れた空、砂利道、
子守唄、田舎の風景、どこまでも続く一本道、は、そういう日本人の心に響くのだ。
制作者側はそんなものは狙ってなどいないだろうが、卓越した技量は二乗作用や
化学反応を観客に起こさせるものだ。
関の弥太っぺの良さは、技術に裏打ちされている。
それも嫌らしさや安っぽくて薄っぺらい感傷を消した高等なものだ。
何より映画としての画作りに手抜きがない事だ。
やたっぺが川で花を摘む11歳の女の子と初めて出会うシーン。
明るくほのぼのと陽射しのしたでの上手い画だ。カメラの位置も文句なしだ。
弥太っぺが、探していた妹の死を知り墓標の前で語りかけるシーン。
カメラが少しずつワンカットでズームアウトしていくと右手に、
最期を看取った女性の嗚咽する姿が出てくる。細かいショットを繋ぎ合わせるよりも
遥かに効果的だ。長回しの上手い使い方だ。(映画 幸福の黄色いハンカチのラスト
シーンも後方からのワンシーンで撮っていて上手かった)
むくげを挟んで語り合う抒情的なシーン。これから一人で
飯岡組との戦いで死を覚悟する前に、助けた人の幸福をそっと確認するくだりだ。
チャップリンの街の灯を思い出すいいシーンだ。山下監督の美学は秀逸だ。
(足長おじさん的映画として 冬の華とはえらい違いだ)
そしてこの映画の肝になっている名台詞がある(伏線になっている)
”この娑婆には、辛い事、悲しいことがたくさんある。
だが忘れるこった。 忘れて日がくれりゃあ、明日になる 。
ああ、明日も天気かぁ ”
ラストシーンで山下監督の美学は極まる
このくだりは、あえて説明しない事にする。
何故このカットが稀有なのか?
あなた自身で確認して頂きたいからだ。
ちなみに、この映画は公開当時にベストテンには入ってなくて、
評論家は誰一人、なんと1票さえも入れていないのだ。
えいがひょうろんかの眼は節穴といわざるを得ない。
おわり
おまけ
遊侠一匹より